それはまるで僕の心を見透かしているような瞳だった。僕はいつもの僕じゃないみたいな全く体を動かす事ができなかった。息をすることすらままならない。何でこんなに苦しいんだろう。
あの瞳は確かに僕をとらえていた。この、殺す事でしか価値を見せられない僕を。冷め切って、何も感じる事はできなかったあの瞳にとらえられて、僕は確かに喜びを感じていた。ふつふつと湧き上がるような、赤黒いそれ。心の中でゆっくりと、けれど何かせかすように胸を高鳴らせるように僕の胸に存在していた。
夢じゃない。黒い艶のある髪。華奢な体。しとしとと降り続けるしつこい雨にぴったりな、彼女。何故か彼女を見て、僕は怖いと思った。怖い?いや、きっと違う。怖いんじゃない。これは多分、美しすぎてたんだ。何を求めるようでもない、ただぽつんと立っている。まるで何もない空き地にはあまりしっくり来なかった。ただ憂いを帯びて悲しそうに見上げるその瞳と、水滴を落としていくあの灰色の空は、怖いくらいぴったりだった。僕は傘を差さなかった。いつも差していない。彼女も差していない。この醜い世界の汚れを落とすかのように、雨をただ身に受けて。(きっと冷たいはずだ。寒いはずだ。)
彼女があぁやって悲しそうな瞳で灰色の空を見上げていても、この醜い世界は淡々と時間を進めていた。雪見に持っていけと言われた腕時計が、小さくカチカチと音を刻む。(もう一分たった)よく見れば、その綺麗な瞳からは涙のようなものが流れていた。もしかすると、雨かもしれない。わからない。けれど、その時の僕には泣いているように見えた。涙を流しているように見えた。だから、胸がチクリと痛んで、たまらずに一歩踏み出した。多分、気羅を打ち込まれた人って、こんな感じの痛みなんだろう。胸の奥がキリキリとして、どくりどくりと脈を打つ。彼女はきっと何も求めていない。強いて言えば、洗い流されて、あの雨と一緒に溶けて蒸発する事なのだろう。何故か彼女の気持ちが聞こえた。いやそれは僕の願いであって、知らないうちに彼女の気持ちとリンクしていただけなのかもしれない。けれどやっぱり、そうやって信じたかった。一歩踏み出すごとに胸はチクリと痛みを増して、どくりどくりと打つ脈は速さを増す。耐えられない。今まで感じた事の無い感触。こんなにも苦しいのに、体は喜びもっとそれを求める。
僕が踏み出す音に気づいて彼女はこちらを向いた。途端に胸の中にあった赤黒いそれが音をたててはじけた。多分はじけたなんて綺麗なものじゃないだろうけど、心の中の考える事まで綺麗でいたいと願った。自分の心の中なんて彼女に見えやしないというのに。外だって、十分綺麗じゃないのに。彼女は黙って僕を見つめた。その瞳には怯えも警戒も感じられない。多くの悲しみがまるで手を繋ぎあって輪を作っているようだった。それを見たら、また胸の中の赤黒いそれはさっきより大きくはじけた。まるで、彼女に喜びを示すかのように。今の僕には歪むという言葉がぴったりだった。黒い喜びが全身を駆け巡る。手足は僕の知らないうちに勝手に動く。気づけば彼女の体温が僕に伝わっていた。肩越しに彼女の髪の感触が伝わる。僕は人の温かさを改めて知った。まるで汚いもののように避けていたそれ。今は全くそんな事は思わなかった。
温かさを離すと彼女は静かに僕の手を握った。手袋越しに、彼女の手の感触が伝わる。僕の左手を、彼女は大事そうに両手で包んだ。俯いた彼女の髪から、水滴がぽたりと落ちた。また、ぽたりと今度は別のところから落ちる。僕にとってそれが涙なのか雨なのかわからなかったけれど。
しばらくすると、彼女は顔をあげた。目には、もう何も残っていなかった。けれどただひとつ、僕の姿がその綺麗な瑠璃色の瞳に写っていた。






瑠璃